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長いこと棚上げされていた「意識」についての問題

更新日:2022年5月29日

『意識と脳――思考はいかにコード化されるか』(スタニスラス・ドゥアンヌ, 高橋洋 著)を参考にしています。


私は子供の頃、この著書に書かれているのと同じ疑問に悩まされたことがありました。

考えていると怖くなって、なかなか寝付けない夜を過ごしました。

  • 私はどうやって考えているのだろう?

  • 考えているように思われるこの「私」とは、いったい何なのか?

  • なぜ今ここにいるのだろうか?

  • 異なる時代や場所で生まれていたら、私はどんな存在だったのだろうか?

  • 眠って夢を見ているとき、あるいは死んだあと、私はどこへ行くのか?

  • こんな疑問はどこからくるのだろう?心から出てくるのだろうか?

  • 魂と心は同じものなのか?違うのか?

これらの難問は、同じく多くの先哲を悩ませ続けてきたようです。


モンテーニュは1580年に、有名な随想録のなかで、

魂の本質について書かれた過去の書物に一貫性を見出せなかった」と嘆いています。


魂の本性と、それが身体のどこにあるかに関して一致していませんでした。

  • ヒポクラテスとヘロフィロスは脳室にあると考えていた

  • デモクリトスとアリストテレスは身体全体にあると考えていた、

  • エピクロスは胃にあると考えていた

  • ストア派は心臓の内部とその周辺にあると考えていた

  • エンペドクレスは血液にあると考えていた

  • ストラトは両眉のあいだに魂が存在すると考えていた

  • ガレノスは、身体の各部位は独自の魂を宿すと考えていた

この本の著者のドゥアンヌ自体こんな経験をしています。

実際、「意識」は追放された。私が学生だった1980年代、実験室のミーティングで、「意識」という言葉を使ってはならないと言われて驚いたことがある。被験者に、自分の見たものを分類させたり、暗闇のなかで心的イメージを抱かせたりするとき、どのみち私たちは意識を研究していたにもかかわらず、この言葉の使用はタブーだったのだ。


1980年代の後半になるとすべてが変わった。


今日では、意識の解明は、神経科学の研究の最前線にあり、独自の学会と専門誌を擁する活発な分野に発展している。


「デカルトが提起した問題に挑む準備が今や整いつつあります。


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