以前は否定されていましたが、主観を強調することが心理学に革命を起こしました。
二〇世紀初頭、ジョン・ブローダス・ワトソン(一八七八~一九五八)らの行動主義心理学者は、心理学から強引に主観を排除しました。
行動主義は、「心理学の理論的な目標は、予測と行動のコントロールにあり、
内省が意識という用語で解釈できるか否かはどうでも良い」という立場でした。
行動主義はやがて否定されましたが、その影響はその後も長く残ったようです。
二〇世紀を通じて、心理学では少しでも内省に言及すれば、疑いの目で見られました。
苫米地博士の書籍に構造主義のことが書かれていました。
「行動主義」は、入力と出力の関係だけを見てきました。
そして、その統計をとって、出てきた結果だけを見るのが「構造主義」です。
行動を起こしたときに、その行動の結果が有益だったら、その行動を頻繁にするようになり、不利益な結果であれば、その行動をしなくなるというのです。この考え方を「行動主義」と言います。
『ドクター苫米地の新・福音書』(苫米地英人 著)より
心の機能は単なる人間の主観からは説明できません。

体外離脱を経験して天井まで飛んで行った、あるいは夢のなかで死んだ祖母に会ったなどといった、主観的な経験にまつわる主張を鵜呑みにすることはできません。
しかしある意味では、これらのような奇怪な内省でも信用する必要があります。
被験者が意図的にうそをついていない限り、それらの報告は、説明を要する心的事象である点に変わりはないのです。
被験者の主観的な報告に対する正しい姿勢は、それを生のデータと見なすことです。
体外離脱を体験したと主張する人は、ほんとうに天井に引き上げられるかのように感じたのです。
その人がそう感じた理由を解明できなければ、意識の科学は成立しません。
事実、新しい意識の科学は、錯視、誤認、妄想、あるいはその他の想像の産物など、純粋に主観的な現象をふんだんに利用します。
そのような現象を通してのみ、客観的な刺激と主観的な知覚を区別し、脳の関係を探究できるのです。
「われわれは意識の科学者として、主観的に見えたり見えなかったりする視覚刺激や、聞こえたり聞こえなかったりする聴覚刺激を発見できたときほど嬉しいことはない。私たちは実験の記録を、意識的トライアルと無意識的トライアルに分類し、それらを分ける脳の活動を特定できるからである」
とドゥアンヌは述べています。
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