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トヨタのTNGAに見る、チーフエンジニアの原点回帰のための大改革

私の愛車は、トヨタのCH-Rです。


先日定期点検に持ち込んで、トヨペットの営業マンとお話をしていたら、「山田さん、車検まであと半年になりましたね。」と言われました。


車検のたびに、車を変えることを期待されているようです。

半年後が楽しみです。😂


現在の私の愛車CH-Rは、トヨタ自動車東日本の岩手工場産です。


岩手工場は、工場の立ち上がりの時から勤務していましたので、私にとって故郷のような工場です。


楽しいことも、辛いこともいろいろなことがありました。青春時代と呼ぶには少し、歳をとり過ぎていましたが、工場での経験は私にとって、素晴らしい思い出です。


CH-Rを購入した動機は、この車が私の第2の故郷の岩手工場産だったからです。


それ以外の購入動機は、SUVではなくクロスオーバー車というカテゴリーを試してみたいと思ったからです。


スポーティな車でしたので、私の年齢を考えると少し迷った面もありましたが、今では決断して良かったと思っています。


そんなことより、この車走っていて、すごーく安定感がありますし、路面から伝わってくる音が非常に静かなのです。


私は、「もっといい車をつくろうよ」というビジョンの意味が、こういうことだったのかと納得しました。



それもそのはず、TNGA Toyota New Global Architecture(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)と言う新しいプラットフォームを採用しています。


かなり以前から、アンダーボディ(フロアー)の共通化やモジュール化といった動きはありました。


しかし、今回のTNGAというのは、もっと大きなビジョンに基づいて行われた、イノベーションと呼んでも良いくらいの大変革です。


アンダーボディの共通化と言っても、日本で販売する車種だけではなく、グローバルな車種間での共通化を実現しています。


CH-Rと共通のプラットフォームの車種は、プリウス、レクサスUX、新型カローラセダン&ツーリングなどがあります。


私が会社に入った、1980年頃のカローラは、スプリンターと言う車との双子でしたが、今のカローラは、プラットフォームが共通という基準で見てみますと、五つ子くらいになるのです。


乗用車のプラットフォームは、全体で下記の4種類になるそうです。

  • GA-Bプラットフォーム/アクア、 ヤリス

  • GA-Cプラットフォーム/プリウス、C-HR、レクサスUX、新型カローラセダン&ツーリング(日本仕様はGA-Cナロー版)

  • GA-Kプラットフォーム/カムリ、RAV4、レクサスES

  • GA-Lプラットフォーム/レクサスLS、LC、クラウン(GA-Lナロー版)

この4種類のフローアーをベースに、ざっと数えただけでも13種類のボディシルエットが作られています。


TNGAとは、日本やその他の国向けの専用車種ではなく、グローバルに効率良く車を作っていくための方針のことを言います。


プラットホームの共通化という狭い枠組みではなく、車づくりの方針そのものを意味しています。


トヨタの公式発表では、下記の6項目の説明となっています。、渡りなりに、少し気づいたことを解説させていただきます。


私が、CH-Rで感じた安定感や、路面の音が静かだと感じた理由が、1項目目の「走る」・「曲がる」・「止まる」に関わる基本部位(プラットフォームやユニットなど)の性能をレベルアップということでした。


さらに、低重心高性能なパワートレーンユニットの新規開発ということも、見事に実現したと思います。


2項目目には、「グルーピング開発」というキーワードがありますが、これが上記でご説明した、五つ子を開発するということです。


アンダーボディが共通ですから、五つ子を全て合わせた台数分のスケールメリットが、享受できることになります。


さらに、20~30%の開発効率向上を狙っています。


3項目目では、四位一体の活動と言っています。


古い言葉ですが「系列」と言われていたくらい、昔から仕入れ先さんを巻き込んだ活動にはなっていましたが、さらに車種を飛び越えて効率的に開発できることになります。


昨今、クローズド・オープンイノベーションが叫ばれていますが、かなり大規模な体制で推進していくことになります。


4項目目のグローバル標準規格の採用も、そのクローズド・オープンイノベーションの枠組みをさらに、大きく広げる効果があります。


車両の製品開発については、チーフ・エンジニアをリーダーとして、そのリーダーシップで、プロジェクトを牽引していく方法をとっていました。今までは、車種の括りでの活動でした。


今後は、プラットフォームの枠組みの中での広範囲な活動と、車種の個性を打ち出していく活動に分かれていくことが予想されます。


CH-Rの開発では、開発責任者(チーフエンジニア)のこだわりからドイツのニュルブルクリンクへ試験走行に出かけたり、日本に比べ速度域の高い欧州の一般道を徹底的に走り込んだりして、走行性能の高さを求めたと報道されています。


ニュルブルクリンクは、競技を行うサーキットより山間の屈曲路に近い設定で、先の見通しの悪いカーブもある。そこを全力走行させることにより、背が高めのC-HRでも安定した操縦性が作り込まれ、安心感のある運転感覚が実現しました。


また、デザイン的にも、キーンルックなどの外観も人気がありますし、クルマ全体としての輪郭は調和がとれており、欧州での評価も高いと聞いています。


チーフエンジニアは、従来の開発のやり方から解放されて、少し余裕が生まれるので、お客さまのご要望を収集する時間が、多く生まれてくるのではないでしょうか?


そして、豊田章男社長はチーフエンジニアの原点回帰を、強く望んでいらしたようです。TNGAは、そのための施策でもあったのです。


豊田章男社長のコメントです。


社長に就任してすぐ、内山田副会長にお願いをしたことがあります。

トヨタ本来のチーフエンジニアの姿を取り戻してほしいということです。

チーフエンジニアは本来、お客さまを誰よりもよく知っている。

お客さまの変化をよく見ているはず。

そんなチーフエンジニアを育ててほしい

と、お願いしてきました。



        TNGAについての公表説明

  1. 商品力の向上クルマを骨格から変え、低フード化、低重心化を実現し、かっこいいデザイン、良好な視界確保、運動性能の向上など、お客様の感性に訴えるクルマとなるよう、次期プラットフォームを開発し、2015年に発売する新型車より順次導入する。まずは「走る」・「曲がる」・「止まる」に関わる基本部位(プラットフォームやユニットなど)の性能をレベルアップし、「もっといいクルマ」の実現をめざす。また、クルマの中核となるパワートレーンユニットについても、低重心・高性能なユニットを新開発し、順次搭載していく。

  2. グルーピング開発による「もっといいクルマづくり」と開発効率化TNGAの開発プロセスでは、まず中長期の商品ラインアップを確定し、それらに搭載するユニットやその配置、ドライビングポジションなどをトヨタの「アーキテクチャー」(クルマづくりの設計思想)として定める。そして、定められた「アーキテクチャー」に基づき、複数車種の同時開発を行う「グルーピング開発」により、部品・ユニットの共用化を進め、「もっといいクルマづくり」と開発の効率化を推進する。なお、部品・ユニットにより異なるが、TNGAの導入により、20~30%の開発効率向上をめざし、その結果として得られたリソーセスを、さらに「もっといいクルマづくり」に投入していく。

  3. ものづくり改革仕入先と調達(部品・ユニットの調達を担当する部門)・生産技術(生産技術を担当する部門)・技術(研究・開発を担当する部門)の各部門が四位一体の活動により、よりつくりやすく、よりシンプルな、部品・ユニットの構造を実現する。これにより、シンプルでコンパクトな製造工程づくりができ、これまで以上に一つひとつの部品をつくりこみ、より高い品質を確保する。

  4. グローバル標準への取り組み、従来はトヨタ専用規格に準じた部品開発であったが、今後は多数の自動車メーカーがグローバルに採用している標準部品も採用できるよう、グローバル標準規格に対応する。

  5. TNGAと連動した調達戦略調達部門では、「グルーピング開発」による部品・ユニットの共用化に対応し、複数の車種をまとめて、グローバルに、車種・地域・時間をまたいだ「まとめ発注」を実施し、さらなる競争力確保を進めていく。

  6. トヨタは、トヨタグローバルビジョンに基づき、「もっといいクルマづくりを通じて、豊かな地域社会づくりに貢献し、『いい町・いい社会』の一員として受け入れられる企業市民を目指す」ことを念頭に、これからもお客様の期待を超えるクルマづくりに取り組んでいく。


チーフエンジニアの原点とは、なんでしょうか?


現在では、チーフエンジニアと呼んでいますが、初めは、主査と呼んでいました。主査とは、部次長級の職位ですが、当時から車両主査というと別格でした。


長谷川龍雄主査は、中村主査の下でクラウンの開発をやり、その後初代カローラの主査となられました。


長谷川さんは、当時、定員が九人の難関中の難関、東京帝大航空学科出身でした。


飛行機が好きだったこともあって、あえてそこを狙いました。小学校三年か四年の頃、陸軍の練兵場にフランス製のサルムソンという複葉機が飛来して、アクロバット飛行をしました。


それは、もう肝を冷やすほどスリルがあり、いたく感激したそうです。


航空機学科の卒業生は、軍による就職割当制という制度があって、陸海軍のつくった新しい飛行機メーカー、「零戦」をつくっていた中島飛行機や三菱航空機などに強制的に入社させられたそうです。


九人の学生で相談をした結果、「気の毒な学生を優先して、どこへ就職したいか名乗りをあげょう」ということになりました。


遠慮がちにしていると、あっという間に、中島飛行機や三菱航空機は決まって、ついに割当の切符がなくなってしまいました。


さあ、どうしようか、満州飛行機はいやだな、昭和飛行機もいやだな……と思っていると、立川飛行機が裏で陸軍と折衝して闇切符を手に入れ、スカウトしてきました。


あまり気は進みませんでしたが、東京にある会社だし、立川飛行機なら二流で、規模も小さいから、飛行機のチーフデザイナー(主任設計技師)に早くなれるかもしれないと考えて、入社することに決めたという経緯があります。


立川飛行機は、戦闘機を一機も設計したことのない会社でしたが、長谷川さんの名は、翼断面の研究で陸軍に知られていましたので、もしかしたら通るのではないかとかすかな期待を持っていました。


陸軍は当時、BRを撃墜できる戦闘機を喉から手が出るほど欲しがっていました。だから、このときばかりは「よし、やってみろ」ということになりました。


かくして、BGの迎撃用防空戦闘機「キー」の開発指令が軍から下ったんです。


大変だったのは、それからです。長谷川さんは、「キー」のチーフデザイナーとして、開発を率いることになりました。


このときの経験が、トヨタに入社後、主査制度の導入につながっていくわけです。


飛行機のチーフデザイナーというのは、すべてのことを文字通り一人で決めなければなりません。


とりわけ、機体重量をどうするか、胴体の大きさをどうするか、主翼の面積と厚さをどうするかといった基本的なことは、最初の設計プロセスで、チーフデザイナーが決めなければなりません。


それによって、飛行機の運命、できのよし悪しが決まってしまうのですね。


それに、新しい技術は誰も教えてくれないから、自力で挑戦していく以外にないし、むろん、チーフデザイナーとはかくあるべしなんていうことも、指南してくれる人はいませんから、自分で体得するしかありません。


あらゆることを自分で考え、身をもって体験していきました。ちなみに、「キー」は、完成しましたが、その直後、終戦を迎え、ついに空を飛ぶことはありませんでした。



長谷川龍雄主査が、主査制度導入の張本人でした。


長谷川さんは、航空機開発におけるチーフデザイナー制度そのもの、あるいは製品開発における企画手法などのソフトウエアも導入しなければならないと考えていました。


航空機の製品開発における企画手法とは、どのようなものかといえば、たとえば重量を企画する、原価を企画するといった場合、まず、チーフデザイナーが総枠を握り、その中でエンジンは何キロ、シャシーは何キロという具合に各部署に配分します。(目標の配分)


肝心なのは、その際、チーフデザイナーが必ず五%程度の、貯金, を持っていることなんです。


これは、財務省が各省の予算を査定するのと同じ理屈でして、開発の途中、どうしてもこの装備をつけたいということになった場合、重量オーバーになる可能性が必ずあります。


そうしたときに、チーフデザイナーの貯金,から重量を分け与えます。


このような方法で、あらゆるプロセスを集中的かつピラミッド的にチーフデザイナーがコントロールする、というのがチーフデザイナー制度に基づく開発システムです。


ーーアジャイルやTOC(Theory of Constraints)理論のように、バッファーを管理するという考え方と混同しないようにお願いします。


当時の自動車会社各社は、GHQが乗用車の生産を許可したのを機に、こぞって乗用車の開発に乗り出しました。


といっても、トヨタ以外は、みな車と生産設備をひっくるめてのライセンス生産でした。


自社開発の方針で挑んだのはトヨタのみです。


「自らの力で国民のための車を提供するのだ」という社是は、創業以来の精神でしたし、何より次に新しい車を開発しようというとき、生産技術が大変重要になります。


それだけに、どんなに苦しくても自力で生産ノウハウを蓄えなければならないと考えたわけです。


自社開発をするならば、航空機開発のノウハウであるチーフデザイナー制度、すなわち主査制度を導入すべきである、と長谷川さんは說いてまわりました。


その頃、専務であった豊田英二さんの大英断で、主査制度は導入されました。


豊田英二さんの有名な言葉「主査は製品の社長」という言葉が生まれたのは、長谷川さんが仕掛けたことだったのです。



最後に、初代カローラが生まれたエピソードをご紹介します。豊田章男社長が期待されている主査像、元祖主査の真骨頂です。


パブリカという車がありました。この車は、1959年に通産省が国民車構想を打ち出したのが昭和30年。


トヨタも、この国民車構想に手を挙げて、その年から開発に着手していました。


ところが、なかなかうまくいかなくて、開発は思うように進んでいませんでした。


まだ頃の頃は、主査の思いを半ば無視して、豊田英二社長やトップの製品開発コンセプトに関する口出しが強かった様です。



長谷川主査は、パブリカの開発前から、お客さまの変化をいち早く掴んでいました。


でも、社内では、「カローラが待たれている」という認識をなかなか理解してもらえませんでした。


なんとか上層部を説得したいと考え、トヨタ自販の神谷社長に直談判する機会をつくってもらいました。


当時、自工と自販が分かれていた頃の話です。


「世の中は右肩上がりで成長しています。この先、『パブリカ』ではダメです。


もう少しハイクラスの魅力ある製品を企画しなければなりません。


新製品は、きたるべき日本のハイウエィ時代にも対応できます。


責任をもってヨーロッパ市場で競争できるようにもします」と、長谷川主査は神谷さんを口説きました。


「絶対に売れる車をつくりますから、販売店も協力してください」ともいって、必死に頼み込みました。


本当に精魂込めて話をしました。それが、神谷さんの心に響いたのでしょうね。


神谷さんは、忙しい中を三時間も時間を割いて、話を聞いてくれたうえ、二、三週間後に電話があって、もう一度話を聞かせてくれといって呼び出されたのです。


このときも、三時間ほど話したでしょうか。話は、具体的なプロジェクトの進め方にまで及びました。


真偽のほどはわかりませんが、おそらく神谷さんは、私の話に納得して、トヨタ自動車工業に乗り込んでくれたのでしょう。


『販売は、自販の責任においてやるから、開発プロジェク 自工の内部でオーソライズしてくれ』といってくれたはずです。

その後しばらくして、プロジェクトは全社プロジェクトへと格上げされました。


はっきりいって、社外に応援を求めるというやり方は自工のメンツをつぶすことであり、職制を飛ばしたことにもなるので、非難の声があがって当然でした。


しかし、そこがトヨタのおもしろいところで、非難の声は、ついぞ聞かれませんでした。

豊田英二さんがGOサインを出されたことで、プロジェクトはスタートしました。 トヨタには、上層部に自由に意見がいえる雰囲気があります。

必要とあれば、会長や社長にも意見をいいます。

「技術部の組織改革が難航したときは、当時名誉会長だった英二さんのところに説明にいったこともあります。名誉会長は『やるんだったら徹底的にやれ』と激励してくれましたね」と、トヨタ自動車相談役技監(当時)の金原淑郎が話してくれたことが思い出されます。 その自由闊達さが、多数の考える社員を生み出すとともに、工夫を重んじるトヨタ生産システムを支えているのです。 山田も規模は違いますが、同じ様な経験をしています。

マネジメントのカイゼン活動を社内にどうしても展開したいと思っていた時です。

中間に反対する人がいましたので、直接社長に説明に行きました。  

秘書から15分もらってあったのですが、社長への報告者が多く、ほとんど時間がなくなってしまいました。 「山田君、また後にしてくれ」と言われましたが、社長の跡をついて行って、 トイレで用を足しながら、社長の了解をもらいました。これも良き思い出です。 長谷川主査は「パブリカの失敗」を教訓にして、発想の逆転を図るべきだと考えました。利益優先のメーカー中心の発想だと思ったからです。


お客様は、何を求めているか、何を喜ぶか……。お客様優先の発想でいかなければ失敗すると思いましたというのが、長谷川さんの想いです。


章男社長のコメントです。


トヨタ本来のチーフエンジニアの姿を取り戻してほしいということです。


チーフエンジニアは本来、お客さまを誰よりもよく知っている。


お客さまの変化をよく見ているはず。



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