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お釈迦さまと大乗仏教 1/2

更新日:2022年5月29日

日本へ仏教が渡って来たのは、538年説とか552年説があって、研究者の間で論争が続いているようです。


しかし、お釈迦さまが約2500年前に説いた仏教の教えが、中国を経由して日本に伝わってきたということを考えますと、お釈迦さま本来の教えが、正しく日本までたどり着いた可能性は非常に薄いと考えるのが自然ではないでしょうか?


538年説とか552年説を論争することは自由ですが、そのことに意味があるとは私には、思えません。


2500年もの間、一人の人間が考えた教えが、正確に現代まで伝わっているというのは、奇跡でもない限り、私には信じ難いものがあります。


本来お釈迦さま本人が書いた書物が伝わっているわけではなく、お釈迦さまの弟子が文字にしたということですし、伝わる過程で翻訳の翻訳の繰り返しがあって、それだけでも正確に伝わっている可能性はあり得ません。


本来仏教の本質は、「縁起」や「空」です。お釈迦さまの教えが正しく伝わって来たかどうかを疑ってみる必要があります。(この本題は、次回になります)



明治以降に日本の全宗派に広まった習慣のようですが、日本のお坊さんには、結婚をしている人もいれば、お酒を嗜む人もいます。


お坊さんとは、お釈迦さまの戒を守る人のことです。


お釈迦さまの戒を守っていないという事実だけをみても、「お釈迦さまの教えを伝えているんだぞっ!」という「仏教」の看板を掲げるべきではないと思います。


私は、今日の日本の仏教を否定しているのではありません。

お釈迦さまの教えを守っていく宗教を仏教とするなら、日本の「仏教」は仏教という名前を使うのはおかしいのではないか、と言っているだけです。


仏教が日本に伝来して以来、日本の昭和以前の仏教は、縁起や空などの仏教の本質をまったく受け継いでいませんでした。


それは、途中で中国の儒教や道教の思想に置き換えられた後で、日本に伝わって来たという事実からも明らかだと思います。


中国を経由して「経」になったとたんに、お釈迦さまの教えは「タオ(道)の書」に変わってしまいました。


現在でも同じですね。


中華思想の超大国が外国の文物をこのように取り扱った歴史は、たくさん伝えられています。


彼の国ではよくあることかもしれませんが、私たちがお釈迦さまを理解し、仏教を理解する上で、これはたいへん重大な問題です。


日本に伝わった時期を研究するより、何がどうやって伝わって来たかを研究すべきだとおもいます。


中国から日本に入ってきた仏教は、道教と儒教が混じり合わさったものでした。


位牌の概念がいまだに受け継がれているのは、道教と儒教の影響です。

もともと仏教に位牌などなく、それは儒教や道教に固有のものなのです。


お釈迦さまは、「アプリオリなものはない」と言っています。


アプリオリ(〈ラテン〉a priori)とは、《より先なるものから、の意》中世スコラ哲学では、因果系列の原因あるいは原理から始める認識方法をいい、カント以後の近代認識論では、経験に依存せず、それに先立っていることをさす。」デジタル大辞泉より


仏教は日本に伝わる前の段階で、中国の「アプリオリなものはあります」という宗教に、その本質をごっそり入れ替えられてしまったということです。  


ここまで見てくると、学校で習った歴史は日本に仏教が伝来した後からのことを、教えてくれましたので、804年に最澄、空海が唐に渡って学んだ時代の中国の仏教は、すでに道教化された仏教だったということがわかります。


私は、今まで日本の「仏教」をお釈迦さまさまの仏教と信じていましたので、また梯子を外された感じがしています。私は、生きているうちに気がついて幸せを感じています。


私は、日本に伝わった大乗仏教を正統な仏教であるかのように理解していました。

これはたいへんな誤解だったのです。日本に伝わったのは仏教ではなく、道教化された仏教です。


それは仏教というよりも、道教もしくは儒教といったほうがいいくらいです。もしくはバラモン教という密教というべきでしょう。


道は「何にもよらずそれだけであるこの世でたった1つしかない真実」という概念、カントの言う「アプリオリ」の概念です。


未来永劫変わらず正しいという概念を指します。

私は今まで、この考え方に毒されていましたから、何か自分のやっていることが間違っているんじゃないか?と不安を感じ続けて来てしまいました。


しかし、お釈迦さまは道を否定しています。

「この世にはたった1つの真実などない。

一切何にもよらず、それだけであるものはこの世にはない」


という発想です。


ですから、道など聞きようがないし、そのために死ぬなど、もっての他です。


イスラム軍の侵攻によってインドで仏教が滅びたものの、当時の北インドや東インドに住んでいた偉い僧侶たちは、みなネパールやチベットに逃げ込んで生き残りました。

そして、彼らは、その地で仏教を伝えました。

世界的には、「オリジナルの正統な仏教をいまに伝えているのはチベット仏教であり、またお釈迦さまの時代から南に伝わったオリジナルの仏教が、パーリ語で現代までスリランカなどに伝わっている」という認識になっているようです。


今年は、亡き父の13回忌ですが、少し複雑な心持ちになって来ました。


しかし、私個人は、仏壇やお墓をお参りするという習慣を、すぐにやめるつもりにはなれませんので、しばらくは続けます。私の頭(心)から、こ洗脳が抜けるまでは続けます。

(もう抜け始めていますので、時間の問題だと思いますが、)


お釈迦さまと「仏教」を繋げて考えなければ、両立します。


約2500年前に、お釈迦さまは、「アプリオリはない」と唱えました。

人々がみな神を信じ、その権威のもとに生きていた時代に、そのアプリオリ性を真っ向から否定したのです。


お釈迦さまが「完全情報はこの世にありません」といえば、神様を信じている人たちの神様への憧れは消えてしまいます。


またお釈迦さまは、死を恐れる人に対しては、「死んだら、その怖がっている君はいないんだよ」の一言で終わりです。


そうなると、人間は、幻想から徹底的に解放されていきます。それを、お釈迦さまは「未来も幻想、過去も幻想」と教えたのです。


初期の経典『阿含経』には、あるエピソードが書かれています。


弟子に、「死後の世界はあるのでしょうか、ないのでしょうか」と尋ねられたお釈迦さまは次のように答えます。


毒を塗った矢が飛んできて身体に刺さったときあなたは、

「この矢はどこから飛んできたのだろう?」

「この毒の種類は何だろうか?」

「誰によって射られたのだろうか?」

などと考える前にまずやることがあります。それは、すぐに矢を抜くことです。


ただし、お釈迦さまは直接「死後の世界はありません」と断言したわけではありません。

霊やあの世といった形而上学的な問いに対しては、「それについては答えません」と言ったのです。「無記」と言います。


なぜならば、それらを証明するのは生きている間は不可能であり、考えることに意味がないからです。


キリスト教世界では長い間、お釈迦さまの教えのことを「悪魔の宗教」と呼んでいました。


神を否定するお釈迦さまが生み出した仏教が、キリスト教徒たちの目にはよほど邪悪なものに映ったということでしょう。


お釈迦さまの教団は反社会性が強いとなったからに違いありませんが、多くの弟子たちも暗殺されています。


お釈迦さまはそもそも、マントラを否定していました。一言でいえば、マントラとは呪文です。わけのわからない呪文を唱えても何にもならないと、お釈迦さまは教えています。


お釈迦さまを信じた人は、病気が治っていたようです。


たとえ、あまり信じてもらえなかったとしても、おお釈迦さまさまがその人の内部表現の書き換えにたけていれば、病気は治ってしまうのです。


この辺りは、無意識とホメオスタシスの話です。下記のブログ記事もご参照ください。




当時はバラモン教の時代ですから、人々は、超人として、お釈迦さまというバラモンの1人を拝んだのでですが、そのラディカルな思想に共感したのではなかったと考えられます。いつの時代でもラディカルに感じますね。


ところが、お釈迦さまの教えのなかには、あらゆる宗教に内在する本質的な矛盾がありません。


それは、部分情報である人間に、なぜ完全情報のことがわかるのか、という問題です。

その点、お釈迦さまは、神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決してしまいました。


「仏教」関連の誤解

  • 最古の仏典である『スッタ・ニパータ』には、お釈迦さまの言葉として、「出家者は呪術や占いをおこなってはいけない」という記述が明確に残されています。

  • 大乗仏教は、お釈迦さまが「神はいない」と言ったにもかかわらず、「如来」という神の概念を取り入れてしまいました。 現世利益をかなえてくれる薬師如来や、宇宙を神格化した大日如来などの神が新たに作られるだけでなく、お釈迦さま本人もお釈迦さま如来という名の神にされてしまいます。

  • 死後の世界があり、宗教の儀式によって行き先が変わるとなると、その宗教は「この世」の権力になってしまいます。お釈迦さまは、修行者は権力から離れるべきだと考えていたのですお釈迦さまは、葬儀を僧に禁止しました

  • お釈迦さまの教えは「自と他の差はない」と知ることなのです。それが悟りの境地です。自と他は同じものだから。自力も他力もありません。それぞれの宗派の言っていることが矛盾しているように聞こえるだけで、お釈迦さまは終始一貫矛盾していないのです。

  • お釈迦さまの「空」の教えを日本人がはじめて知ったのは、昭和になってからの話だという事実です。」  etc.+etc.


絶対的な神様という考え方は、「ゲーデルの不完全性定理」によって既に否定されています。この世に絶対的なものはありません。


最近になって、量子論などを研究する物理学者も、お釈迦さまの教えと量子論を重ねて論じるようになっています。


今回は、「(日本の)仏教」と(お釈迦さまの)仏教について、整理してみました。


次は、お釈迦さまの教えの本質「縁起」と「空」について、整理してみたいと思います。


この記事は、苫米地博士のたくさんのご著書から、メしした内容を整理しました。仏典などの1次資料で研究したものではありませんので、ご承知ください。

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